『FACE TO FACE(向き合う)』
『己と向き合うことが大いなる方と向き合うことなのだ』神学とは、「神を学ぶ」と書く。しかし、神を頭で理解しようとしても無理な話である。神を学ぶために神学校に行く者もいる…そんな、神学を身に付けた人の中には、THE BIBLEに出て来るパリサイ人や、律法学者の様な者たちも多くいる。神は勉強するものではない。「知る」とは体験することである。「知識は人を高ぶらせる」とあるが、「大いなる方を愛することこそ 知恵の始まり」という言葉もある。「神は人を神の似姿に似せて創造した」とあるが、人間こそ大いなる方の傑作なのだ。人と出会い、人を知ることこそ、人を創造し、いのちを与えてくれている大いなる存在を知ることでもある。大いなる方は人を創造したが、人は宗教の檻(おり)の中に大いなる方を閉じ込めてしまったのだ。
宗教はその神学に基づいて、様々な教団、宗派という組織を立ち上げて来た。しかし、その中で本質を見失い、形骸化して来たことも事実である。宗教は神を難しく複雑にする余り、人々には遠い存在になってしまっている。あなたが存在することこそ、大いなる方が存在することの証なのだ。無知で世の落ちこぼれと言われる人たちの方が、逆に宗教的な人たちよりも神を身近に感じさせてくれる。「あの教会の人たちが言う神は遠慮したいが、あなたの信じている神ならばわたしも信じたい…」という者たちもいる。人は人によってつまずくが、人は人によって癒され、また、慰められたりもする。大いなる方は人(JESUS)となってこの世に「罪人を招くために来られた…」とある。罪人とは、理想の生き方や道徳的な教えから逸れる者たちを指す言葉でもある。人は誰であれ、皆、罪人なのだ…「義人は誰ひとりとしていない…」ともある。魂のロッカーは、「わたしは罪人を招き救うために来た…」
と語っている。