『忙しさに振り回されて、己を見失わない様に…今日の一日に意味を見出せばいい』皮肉な事が起るのも、これまた人生である。めげることはない。必ず如何にかなる…何時の日か己の生涯を振り返る時に、「あの時のあの出来事があったが故に、今日の自分があるのだ…」と言える日が必ず来る…思い通りに行かないことや辛いこと…また、切ないことや悲しいことは望んでもいないのに遣って来るものだ。20代の頃は「怪我(けが)や事故は人に起っても、自分には起るわけがない…」と思い違いをしていた。そんな自分が首の骨を折るという大事故に遭い、「えっ…、嘘(うそ)…、まさか…俺が…、やばい…、如何しよう…」という思いが脳裏にめぐったことを今も鮮明に覚えている。生きることは難儀である。また、病む事や老いる事も…そして、人生の最後の死を迎えることなどは、己の思い通りにはならない…人の一生は、流れ来ては流れ去って行く川の流れと似ている。また、人は雨の一滴の雫(しずく)の様に木の葉から地面に落ち、地下水に流れ、それが川となり、そして海の一部となって行く様に…色々な処をめぐりながら旅をしている様でもある。たとえ、一雫(ひとしずく)の雨の様であっても、自分を蔑むことはない。逆に感謝するといい。THE BIBLEには、「わたしはあるという方が人をその方の似姿に似せて創造され、息吹きを吹き込まれた…」とある。「わたしはある」という大いなる方にデザインされ、生かされているというルーツをもっている我々、一人一人も「わたしはある」という存在であることを忘れてはならない…人は娑婆に於いて、己の存在価値を見失って生きている。何かを為し遂げて人に評価されることが自分の存在価値をもたらすと勘違いしているのである。あなたが何かできるから…また、何かをしたから…愛されるのではない。あなたの存在そのものが、たとえ、何もできなくても愛されるに値するのだ。魂のロッカーJESUSの十字架は、誰が何と