『LONELY NIGHT(淋しい夜)』
『淋しい…と思える時にこそ実はひとりではないことに気づける』星々は、
夜空という水槽の中で熱帯魚の様に、天から授かった輝きを誇らしげに放ちながら泳いでいる。月は見えない太陽の光を、その闇夜に照り輝かせている。大地は静まり返り、遠い彼方に微(かす)かに姿を現しはじめた暁(あかつき)が、一日の始まりを告げ知らせ様としている…そんなアメリカ大陸を十字架を担いで歩いた時の景色が、ふっと、ぼーっとしていた我が脳裏に写し出される。人間は不思議なもので、今を生きているつもりが、実は過去を己の中に秘めて、現代を未来に向かって生きている。「真理はあなたを自由にする」と魂のロッカーは謳っている。「真理」とは、見える何かは見えない何かによって成り立っていることを認知することでもある。今、あなたが身に付けている衣類やはいている靴(くつ)でさえ、見えない誰かによってデザインされ、作られたことを忘れてはならない…あなたが気づいていなくても、あなたは真理によって支えられて、今日という日まで生きて来たのだ。然れど、日々の生活に心奪われ、そんな当り前のことを気づけずにいるだけなのだ。あなたが生き、動き、存在することは祝福である。愚痴をこぼすこと以上に、あなたには感謝できることがいっぱいある。「ありがとう…」と言えないのは、感性が鈍っているからだ。いのちは与えられた大切なものである。その授かったいのちを通して、人は生かされていることの尊さに気づくことができる。浮世では、感性が錆(さ)び付いてしまい、感動することさえ
麻痺してしまうのだ。『夜と霧(きり)』の著者V.フランクルは「感動した人は生きて帰ってきた…」とナチスの強制収容所から生還したユダヤ人たちのことを語っている。「感動」とは、いのちを与えられた者が感謝して生きている証でもある。人は無関心、また無気力、そして無感動に成り易い習性をもっている。「大いなる方は天と地を創造された…」とTHE BIBLEにはあるが、大空も大地も昼も夜も、自然の風景は己の存在意義